前にも書いたけど。

文章が無駄に長いな。。
短く簡潔に書ける人がうらやましい。


関係ないけど、寝てネェ・・・。



06年8月31日 (Thu)


globe / globe (1996 JPN)


今日はいつにも増してどうでもいいことを書こうかと。それも、段階を経て、すっごくどうでもいいことから。最近、デスクトップのメイン機をサーバ代わりに、USB接続してあるHDDに別アカでiTunesで昔の日本のポップスや洋楽ロックを入れて、ノートPCでワイアレスでそれらを聴くことが多い。別アカの理由は単にiPodに入れるまでの曲ではない(もちろん、無尽蔵に曲が入るのであれば一緒のライブラリに入れて構わないのだけれど)。当然、iPodに入れる用のフォルダもライブラリに追加して。まぁ、やっぱ音楽は大きな音で聴きたいし、聴ける時間帯の場合はアンプ→スピーカーから聴くけど、作業や仕事をノートでやっている最中はそれがほどよく気持ちよく、CDを取り出すのが面倒になったり、今のメイン機は単なる物置になってしまった感はあるけど、ファイルとして音楽を聴くことに否定的であったにもかかわらず便利な世の中になったなぁって。次。人間の縁というのは不思議なもので、遠い存在のようで実は近い存在である有名人がいたり(実際います)、友達の友達の友達が知り合いだったり、絶対切れない縁だと思っていても簡単に切れてしまったり。それが運命だとかの類じゃなくて、もっと安易に、単純に大事な繋がりだったはずなのにどうでもよくなってしまう人との縁は、ぎりぎりまで保っていてもひとつ箍が外れると一気に壊れるように。逆に、腐れ縁とか切っても切れない縁、なんていい方もされる人間もいたりして、結局のところ、人が死ぬというのは命を落として永遠にこの世からいなくなることだけを指すわけではなく、人との縁が全て切れ(もしくは誰からも忘れ去られ)、本当の孤独になったというのもそれに値するのだなぁ、とつくづく感じる。だから、孤独になるのが怖い。それでも何かしら繋がっている気がするから明日も生きられる。生きたくないと口では言っていても(死にたいと口にしたり自殺未遂に関しては機会があったらいずれ)で、その「何かしら」がなくなったときにも命を失うのと同じなんだろうな、って。存在するってことが生きているのと同義だったらね。さて、さらにどうでもいい話。今日の1枚は、何も自分が小室哲哉が好きだから、とかそういうんじゃないし、昔を懐かしむでも、改めてTMNの終了後の一連の小室ワークスが”気に入らない”と大声で言いたいわけでもなく、このアルバムに収録されている「Precious Memories」を聴いて今まで生きてきた中でどれだけの人と出会い、どれだけの人と決別し、そしてその決別したはずの人たちとの復縁は(期待してないけど)ありえるのかを考えたり、なにより、最も近しい他人である血縁関係のひとつ、従姉妹の兄(従兄弟と表記すればいいのかな?僕より4つ歳が上)が去年結婚し、その従姉妹がうちらの家系だけの二次会(従兄弟は同級生とかのほうの二次会へ行ってました)で何気なく「Precious Memories」を歌っていたことを突如思い出し、「結構どうでもいいけど、捨ててないCD」が入っている箱に偶然その曲が入っているこのアルバムがあったからなんとなく最近聴いている。先に書いたiTunesにてインポートして。他に1枚globeでは持っている。もう1枚どこかにあるはずだけど、ケースだけの状態。今の僕にとってこのアルバムの価値はこの曲だけにあるといっても、嘘じゃない。キーの高さが時折窮屈に聴こえるKeikoのボーカルはこの曲ではなんだかとても馴染んでいて、少しエフェクトかけてごまかしているけど、しっとりとしたバラードがどの曲のボーカルよりソウルフルだったりして。もちろん、小室哲哉のピアノも引き立ち。ちなみに、小室哲哉に関して、彼の打ち込んだ走るシークエンスとコード進行は、一連の小室プロデュースのどうでもいいようなシンガーの声を抜かし(かはらともみ(漢字ワカラン・・・)と初期hitomi(小室プロデュースじゃなくなった後の数枚は好き。小室時代のは聴いたこともない)、あ、あと、あむろなみえ(か、漢字が・・・)しかしらん・・・)、それ単体で聴きたいと思わせるものがある。ピアノソロ、シンセソロには、コマーシャルでまさに俗的な小室哲哉の(過去の話になるが)錬金術など遠く及ばないほどの才気を感じる。別にそれらのことについて賛同してくれなくていい。それと、マーク・パンサーの存在と小室哲哉のコーラスは、globeには要らない要素だと断言できる。最も、前述のことを体現するのであれば、Keikoのボーカルも必要なく小室哲哉の曲だけでもいいのだけれどね。さて、妙に感傷的な「Precious Memories」。・・・人の記憶は、自分だけが作り出すものだけではない。よほどの過酷な環境でいる場合を除き、おそらく一人より、誰かとの思い出の方が「Memory」として残っていくのだと思う。嫌な思い出も、それとは違う思い出も。それが人の一部を形成し、人は記憶という足跡を残し、時折後ろを振り返って足跡を確認するかのように記憶を遡る。話がちょっとそれるけど、多重人格者は人格が「ステージ」に上がっているときの記憶は断裂されてしまう。普通の人間の場合、生まれてから生きている今まさにその瞬間までは一本の紐(道でもいい)で繋がっていているが、多重人格者のそれは途切れ途切れになっているといえるらしい。人格数が多い場合、複数の人格を統治する人格や同時に複数の人格が現れることもあるけど、主人格は、他の人格が現れている間の「Memory」がない。・・・「Precious」といえる出会いがいくつあったか、この先どれだけの「Precious」な出会いが待っているのか、来年の8月31日もまだ生きているのか、全てがわからないまま生き続けるけど、どんな関係、どんな縁も生きうる限り尊いものなんだなー、と感じつつ、分かっていながらそれらを破壊することをヒートアップさせている自分を憎んでみたり。

Amazonマーケットプレイスででは¥1だけど誰も買わないだろうなw

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